
塾長挨拶
西原塾の塾長をしております、西原陽介です。
私は学生時代「英文はどういう理屈で成り立っているのだろう」と常に疑問に思っていました。
英語の勉強といえば単語や文法を覚えるだけで、英文の成り立ちを教えてくれる人はいませんでした。
単語や文法を覚えても、それだけでは英文、特に長文は読めるようにはなりませんでした。
英語が苦手なまま大学生になり、そこでアメリカ人の先生と出会い英文の構造を教わりました。
構造を知ることで単語力や文法力が生きるようになり、長文が正確に読めるようになりました。
西原塾では私が小4から高校卒業までずっと英語が苦手でだったのを大学で克服するまでの経験から、「英文の成り立ち」に焦点を当てて授業しています。
西原塾
塾長 西原陽介
塾長概要
名前 | 西原陽介 |
役職 | 塾長 |
生年月日 | 1990年9月28日 |
学歴 | 埼玉県越谷市立弥栄小学校 同 北陽中学校 西武台千葉高校 特進コース レイクランド大学 ジャパンキャンパス中退 |
趣味 | 読書 音楽鑑賞 iPhoneなどのガジェット ゲーム |
私が学習塾を開くまでの経歴
「偏差値の低い人=クズ」と本気で思っていた学生時代
みなさんこんにちは。
私は西原塾の塾長をしている西原陽介といいます。
私は1990年に東京都足立区で生まれ、その後埼玉県越谷市へ転居しました。
母の影響で小学1年生から塾に通い始め、「偏差値の低い人=クズ」という「偏差値至上主義」の偏った考えを持ちながら成長しました。
※母にそんな思想はなく、私が勝手に抱いたものです。
私は「偏差値至上主義」なのに勉強は嫌いで、小中高とほとんど勉強しませんでした。
小1から花まる学習会、小5から市進学院、中2から近所の個人塾といろいろな塾には通いましたが、まじめに取り組んだことはなく、塾に通うことで「勉強した気分」を味わって満足していました。
それでも中学生の時は全く勉強せずに国語・英語・社会で偏差値60以上を何度が取れていました。
特に国語は父の影響で歴史小説を愛読していたからか読解問題が得意で、最高偏差値71を叩き出すなど大得意でした。
地頭に頼っていただけなので成績は安定していませんでしたが、全く勉強していないのに3科目&5科目の偏差値で60前後を取れていました。
この「勉強していないのにそれなりに成績が良い」というのが理由で偏差値40~50台前半の子を完全に見下し、偏差値60台の子は「必死に勉強してその程度かよ」とバカにしていました。
もちろんこの性格が受け入れられないものだということは分かっていたので隠していました。
結局まじめに勉強することなく高校受験を終え、西武台千葉高校 特進コースへ入学。
勉強していないのに偏差値60前半の特進コースに入れたことも私の自信とプライドを加速させました。
完全に井の中の蛙でした。
勉強がうまく行かなくなる高校時代
高校時代も相変わらず「早慶とMARCH以下はバカ」なんて偏差値至上主義なことを思っていました。
ですがここでも勉強をする気になれず、すぐに落ちこぼれて1年の夏からは学年で下から数えたほうが早い始末。
特に数学は毎回赤点で補習を受けさせられていました。
中学生の時は勉強しなくても偏差値60程をキープ出来ていましたが、大学受験はそこまで甘くは無く、当然のように受験に失敗し浪人生活へ。
受験勉強に失敗し、自分を見つめ直した浪人時代
1浪目をバイトに明け暮れて棒に振り、親に泣きついて2浪目に突入。
予備校に通いながら夏の終わりまで真面目に勉強するもどうも勉強に身が入らない。
「自分は偏差値が低いやつのことをクズだと思っている。今は自分がそのクズになっている。なのにどうして勉強する気にならないんだろう・・・?」
自分のしていることや信じていることに違和感を感じ始め、様々な種類の本を読みながら自分を見つめ直すことにしました。
「受験勉強に興味が無い」自分の本心に気づいた20歳の秋
2浪目の9月になって「本当は勉強にも大学受験にも大学にも偏差値にも興味がないんだ」「興味のないことをするのを我慢できない。」という自分の本心に気づきました。
「偏差値が高い=正義」という周りの意見や世間の風潮を鵜呑みにしていただけだったのです。
自分が小学生から15年以上抱いていた「偏差値至上主義」と矛盾する自分の本心に目の前が真っ暗になりました・・・。
とは言え2浪までして高卒は周りの人にバカにされてしまう。
偏差値至上主義の名残か昔から無駄にプライドが高かった私は急いで代わりの道を探さなくてはならなくなりました。
「みんな一目置くだろう」見栄を張るために決めた海外大学進学
「海外の大学ならなんとかバカにされずに済むだろう!むしろみんな一目置くかもしれない!」と思った私は海外の大学へ進学することに決めました。
もちろん国際化のこれからを考え、英語が使えるようになることの利点は考えていましたが。
ちなみに中学時代の英語の成績は偏差値60前後ありましたが、それは単語を日本語にしてそこから文の訳を推測するという国語力に頼りきったものでした。
文法は2浪目で勉強した分があったので品詞や五文型は分かっていましたが、文法の知識だけがあるという状態で読むスピードは遅く、書く・聞くの力に至ってはほとんどありませんでした。
センター試験英語でも調子の良い時に120点台が取れるといった決して高くないレベルでした。
カナダやフィリピン、シンガポールなど留学先を探しましたが、海外へ留学するのは生活費などが高すぎて難しいので、日本国内にキャンパスがあるレイクランド大学へ進学しました。
英語力0で入ったレイクランド大学で正しい勉強法を知り、英語が得意になった。
レイクランド大学では5段階中3番目の真ん中のクラスに入学。
講師は全員外国人、授業はすべて英語という環境に苦しみました。
授業中は先生が話す英語が何と言っているのか全く分からず、隣の席の子に助けてもらわないと指示が理解できない。
ディスカッションの授業をしても周りの人が言っていることを聞き取れないし、自分の意見も話せない。
でも先生には「Yosukeはどう思う?」と質問される。
最初の3ヶ月は通学中に吐き気や腹痛で途中下車するほど毎回緊張していました。
しかしこの緊張が驚異的な集中力を産んだのか、わずか4ヶ月後にはクラスで唯一リスニングの試験で満点を取るほどに急成長。
最初は先生が何を指示しているのかすら分からなかったレベルから、この頃には書いたエッセイ(小論文)が名指しで褒められるようになりました。
課題図書だった”The Thirty Nine Steps”にハマり、アマゾンで買って毎日の通学で読んだりと英語漬けの毎日が楽しく感じるようになりました。
「今ならセンター試験楽勝かも」と思って試しに解いてみたところ3年連続180点超え。
しかも受験用の単語や文法の勉強は一切していません。
浪人していた頃は全く歯が立たなかった英語が分かるようになって本当に嬉しかったです。
しかし学費が3ヶ月で約55万円と負担が重く、1年半でやむなく中退することに。
人に教える楽しさに気づく
中退後はフリーターとして様々なアルバイトをしながら自分が進む道を考えていました。
学習塾・アパレル・ドラッグストア・引っ越し作業・古本屋・ほかにもいろんなところで働きました。
その中で学習塾で働いていた時に気づきました。
「人に教えるって楽しい!」
単純に楽しかっただけではなく、もともとプライドが高い人間なので人に教えることで優越感を感じられることも理由の1つだったのかもしれません。
でもこの時に塾講師として働くことが楽しいと、一生の仕事にしたいと思うようになりました。
見えてきた塾業界の裏側
塾講師をただのアルバイトではなく、一緒の仕事として考え出してから多くのことに気づきました。
- 塾の授業内容は学校の範囲を先取りまたは後追いしているだけで生徒の理解度なんて無視していること
- 塾は生徒の成績が上がらなくても、「家で勉強しないから」「勉強時間が足らないから」とそれっぽい理由で生徒の責任にして、生徒の成績が上がろうが下がろうがどうでもいいこと
- 一部の優秀な生徒が良い学校へ入学してくれれば塾の実績になる。だから出来の悪い生徒は適当に授業して放っておいていること
などなど・・・。塾に通っていた頃には気づかなかった塾の裏側を知りました。
「この学習塾は生徒の成績向上を第一に思っていないな」
そう思うたびに勤めていた塾を辞め、複数の学習塾で働きました。
自分が教えたいと、教えるべきだと思ったことを教えられる塾でないと講師として続けられなかったんです。
ですが私が働いた塾はどこも同じようなものでした。
どこも生徒の成績向上の助けになっていない。
本当に教えるべきことを教えていない。
ただ生徒を集めて月謝を貰えれば良いと考えている。
どうすれば生徒の成績が上がるかではなく、どうすれば生徒が1人でも増えるかばかり考えている。
大の苦手だと言っていた数学を私に任せてきた塾もありました。
自分が思う「理想の塾」ないなら自分で作ってしまおう!
「どうすれば自分が教えたいことを教えられるのだろう」
「自分なら生徒の成績だけを考えて授業できるのに・・・」
そう思いながら学習塾と家庭教師を続けていました。
そんなある日、ふと「自分が理想とする塾がないなら、自分で作れば良いんじゃないか!」と気付きました。
言い訳になっちゃいますが父はサラリーマンで母は専業主婦と「誰かに雇われる」のが当たり前の環境で生きてきたので「自分で塾を開く」という単純な発想が出なかったのです。
塾を開く上で次の姿勢を決めました。
- 「自分が開く塾は生徒の成績向上を第一に考えた塾にする」
- 「生徒の成績向上に責任を持つ。ただ授業して終わりなんて塾にはしない」
- 「ただ学校の範囲をなぞるのではなく、本当に重要なことを教える」
- 「教える必要がない物は教えない。学校の授業で十分な科目は教えない」
- 「授業して終わり。ではなく、生徒と密接に関わりサポートする」
- 「生徒を縛って無理矢理勉強させるのではなく、生徒の自主性を育み、尊重する」
- 「生徒は選ばない。やる気があるならどんなレベルの子も受け入れる。」
苦手な英語を克服した。この経験を生徒に教えたい。
科目は英語を教えることにしました。
英語は小中高とずっとbe動詞と一般動詞の区別すらつかない状態でした。
単語を日本語に訳してそこから文全体の意味を推測して・・・と、もはや国語力で解いていました。
ですがレイクランド大学へ通って英語の成り立ちから勉強し、今では辞書なして海外のサイトで買い物ができるほどになりました。
フリーターをしていた頃には知り合った台湾の方から一緒に働かないか?とお誘いを受けたりもしました。
かつて苦手だったけれどそれを克服した。
この経験を生徒に提供してあげたいと思って英語専門にしました。
生徒にはかつての私のように歪んだ思想に染まってほしくない
英語は生徒の成績を確実に向上させられるノウハウがある。
でも私が教えたいのはこれだけではありません。
私は「周りの声や常識に流されず、自分の心や直感に従う大切さ」も教えたいと思っています。
自分の本心に気づかず、周りの意見や親に流されている子を助けたいのです。
これは私の実体験に基づきます。
私は「偏差値の低い人=バカ」という偏差値至上主義の考えをずっと持っていました。
だから勉強して偏差値の高い高校に入る。
そして有名な大学に入る。
それがすべてだと思っていました。
ですが本心では最初からずっと偏差値も受験にも興味はなかったのです。
そのことに2浪目で気づくまで周りや親の意見に流されて生きていました。
偏差値が全てだと自分が思っていると信じ込んでいたのです。
だからずっといやいやながらも勉強に向かっていました。
でも本心では勉強に興味がなかったから、ずっと勉強にやる気を出せず2浪までズルズルと行ってしまったのです。
今思えば無意識的だったとはいえ興味がないことを無理してやっていたんですから結果が出なくて当然です。
周りや常識に流されず、自分の心の声に従うことの大切さ
世の中には私と同じ境遇の子がたくさんいると思います。
自分が本当は何が好きで、何に興味があって、何をしたいのか。
自分の心は知っています。
それを常識だの周りの意見だの親の意見だので蓋をして、気づかないふりをして生活してほしくないのです。
だから西原塾ではただ偏差値を上げるための勉強を教えるのではなく、
「あなたは本当に勉強したいの?」
「あなたは実は勉強以外にやりたいことがあるんじゃないの?」
と問いかけて「自分の心の声を聞くきっかけ」を作りたいと思っています。
もちろん自分の心に従うことは決して簡単ではありません。
様々な人と交流し、自分の視野を広げていろいろな意見を持ち、確固たる自信を持って自分の声を信じ、従う。
そのためには「理解力」「コミュニケーション力」「論理的思考力」が必要だと思っています。
理解力は自分の心や周りの意見を正しく知るために必要な力です。
「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と孫子が言っているように、自分自身と周りの意見について知らなくては何を信じれば良いか分かるはずがありません。
コミュニケーション力は多くの人と交流していろいろな意見を聞き、自分の視野を広げるために必要な力です。
私はこのコミュニケーション力が低かったので読書で多くの人の考えを知りましたが、実際に人に会って、話して考えを知るのが一番心の声を豊かにすると思います。
論理的思考力は得た知識や情報をもっと深く考えたり、別の意見と組み合わせて自分の視野をさらに広げるために必要な力です。
自分の考えが正しいのか最終的に判断するために必要な力でもあります。
人から得た考えがいくら正しくともそれをただ従っているのでは周りに流されているのと変わりません。
多くの知識、情報から自分なりのアイディアを生み出してこそ自分の心に従うことができます。
偏差値だけではなく、高い人間性も身につけて欲しい
高い「英語力」と「理解力」「コミュニケーション力」「論理的思考力」、そして「周りの声や常識に流されず、自分の心や直感に従う大切さ」。
これが私の教えたいことです。
これを教えるために私は西原塾を開きました。
小中高浪人時代と周りの意見に流されて過ごし、大学中退後に勤めた塾では自分の教えたいことが教えられなかった私がやっと本当にしたいことができる場、それが西原塾です。
やっと自分の望む人生が生きられる。
目の前の生徒に全力を尽くすことだけを考え日々幸せを噛みしめています。
小中高浪人時代と周りの意見に流されて過ごし、大学中退後に勤めた塾では自分の教えたいことが教えられなかった私がやっと本当にしたいことができる場、それが西原塾です。
やっと自分の望む人生が生きられる。
目の前の生徒に全力を尽くすことだけを考え日々幸せを噛みしめています。
ここまで読んでくださった方、お疲れ様でした。
昔から文が冗長になってしまうのでここまで約5100字と長文になってしまいました。
言葉足らずになるよりは話しすぎのほうが私の人となりを知ってもらえると思い書きました。
私がどういう学生時代を送り、どういった考え持ってこの西原塾を開いたか、すべて書けたと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。